羅津に在留していた人たちは、終戦時約6000人。
そのほとんどの方達が満鉄に勤務していたそうである。
と云っても全員では無く、満鉄社員やその家族を相手に商いをしていた人も多数いたそうだが、とにかく水源地まで避難しようということになり、病院へ入院している人は担架に乗せ、全ての日本人が避難したのであるからその列の先頭から最後尾までの距離は3~4キロくらいになっていたそうだ。
いずれにしても一時的な避難で再度羅津へ帰れると思いこんでいたので、殆どの人たちが着の身着のまま、食料と云ってもせいぜい3日分位しかもっていなかったのが、ソ連軍による羅津上陸の為に戻る事も出来ず、そのまま會寧まで150キロくらいの距離を歩きとおした。実際に地図上で計測すると直線で60キロ、しかし道なき道を歩くのには、山越えの場合には大きく蛇行しなければならない。しかもいくつもの山を越えるのである。
彼女は200キロくらいあったと後日父から聞いたそうである。満鉄社員が多くいた脱出者達は満鉄が手配した列車に乗れる事が出来、會寧で列車に乗って時には「もう歩かなくてもいいんだ」と云う救われた気持ちでいっぱいになった。
列車とはいえ全てが無蓋の貨物車で、中には1枚板の木材運搬車も数多くあった。その材木運搬車には4角に柱を立て、ロープでかこってあるだけで危険この上ないものだった。
幸い彼女たち一家は数少ない箱型の貨物車に乗れた事は非常にうれしかったそうだ。
列車はソ連軍機からの爆撃を避けながら進み、朝鮮と満州の国境の街図門(ともん)駅に到着したのは8月15日だったと思うそうである。狭い貨物車からホームに降りて身体を伸ばしたり、トイレを済ませたり、水飲み場へと走ったり・・・
その時である、いきなり7機のソ連軍機が飛来し、ホーム目掛けて2個の爆弾を投下したのである。ホームに居た人カ社に乗っていた人が一瞬に吹き飛ばされた。その上運悪く隣のホームには、弾薬を積載した日本軍の貨車が停車していたので、これに引火してしまった。
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ドカーン、ドカーン、ドカーンとそれらも誘爆を起こし、被害は一層甚大なものになった。横倒しになった貨車、ホームや線路上には千切れた手足、頭、形も解らなくなった死体が折り重なり合い、負傷者のうめき声、助けを求める声、親が子を探す声、子が親を呼ぶ声、硝煙の匂い、人が焼け焦げる匂い、血の匂い、ホームは多くの血が流れ、ぬるぬるとして足の置場も無い有様になっていた。
この爆撃の難を逃れた人々は一斉に駅前広場の防空壕へと走った。ところがそこへまたもソ連軍機からの機銃掃射である。
僅か数センチ足が前に出ていた、数秒出遅れた、目の前にホームの柱があったという運不運の差が運命の分かれ道であった。
このときの死者は400人以上、負傷者は500人以上とも
600人以上とも言われている。
このとき彼女のすぐ下の妹は再び行方不明になってしまったそうだ。又家族全員を失い自身も全身に爆弾の破片を浴び、今でもその破片が体内に残っている友人が健在で居るとのことであった。彼女の家族は行方不明になった妹を除き全員無事だったのが奇跡のようだと話していた。しばらくの間近くのとうもろこし畑に身を隠し暗くなるのを待った。
暗くなるのを待って再び列車に乗り込みのろのろと動きだしたが、犠牲者を葬る事さえ出来なかった。只手を合わせ心の中で詫びるだけだった。
明日に続く。

